「日本語が亡びるときー英語の世紀の中で」という本が最近話題になっている。
まず一読して最も印象に残った一文を引用します。
口語の変化がそのまま反映された文章を「新しい」などと言って喜ぶのは、〈書き言葉〉のもつ規範性がいかに文化を可能にするかを理解していないからである。
文語と口語という境目のあいまいなものとどう付き合っていくかというのが、まず文章を書こうと思ったひとがぶつかる大きな壁でしょう。
「である」とか「私」とか、普段使わないんだけどなー、なんて思いながら「だが」を「だけれど」とか「だけど」なんかに自分なりに調整してみて、適当なところで折り合いをつけんですよね。
ウェブ上でも、いろんなひとがこの本について言及していて、それぞれ色んな事を言っているのだけれど、一番印象に残ったのは、こうやって「口語は文語と違うし、だからいいんだよ」ということをハッキリと言いのけたこの一文でした。
〈本書について言及している“いろんなひと”〉
・梅田望夫
水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。 - My Life Between Silicon Valley and Japan
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1
・内田樹
日本の外国文学研究が滅びるとき - 内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php
・梅本洋一
『日本語が亡びるとき──英語の世紀の中で』水村美苗 - nobodymag
http://www.nobodymag.com/journal/archives/2008/1202_2228.php
文語といえば、例えば2ちゃんねるなんかの独特のスラング混じりの文体、あれも言ってみれば新しい文語だったりするのかな。
場所がフォーマットを規定して、フォーマットが内容を規定しているというのは否定できないかも。
(2008年11月17日「今日のダーリン」より)
・北海道といえば、いままた、北海道大学の
山岸俊男さんの本を、おもしろく読んでいます。もともと山岸先生の『信頼の構造』という本は、
「ほぼ日」の母とも言える存在で、
これまでにも『安心社会から信頼社会へ』などを、
強くオススメしてきましたが、
いま読んでいる『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』は
ぼくの気持ちに「ぴたっ!」ときまして、
ひざを打ちすぎて痛くなっちゃうくらい納得の本です。
「武士道」たの「品格」だのが、どうしてダメなのか、
説得力のある論を提出してくれてます。
また、お会いしたいなぁと思っています。
(2008年11月19日「今日のダーリン」より)・先日、おすすめした山岸俊男さんの本、
『日本の「安心」はなぜ消えたのか』は、
どこでも売り切れになったしまったようです。
おそらく、この内容の理論を待っていた人たちが、
たくさんいたということだと思います。
たぶん、ですけど、いずれ重版になるでしょう。
この本、いまの時代にどんどん売れると思うもの。
http://www.1101.com/itoi_books/2008-12-07.html
マティス一点しかなかったけど(たぶん、見落としただけかも)、いや一点あったら十分か、でもポスターに名前入ってるのに。
日本人の、名前忘れたけど、あれもよかった。うん、名前覚えてないや。
あ、あと音声案内初めて借りてみた。あれ良いね。ちょいと高いけど。音声データだけくれやしないのかい。iPodに入れて聞ければいいのに。野村なんとかって女優さんが声やってた。声優だったら、もし有名声優だったら、アニオタどもが美術館に殺到するのに。それもいやかな。ちょっと違うか。でも、能登麻美子の声だったら、おれも行くかも。
夜はやさし フィツジェラルド
アフリカの日々 アイザック・ディネーセン
最後の親鸞 吉本隆明
マネジメント ピーター・ドラッカー
映像の詩学 蓮實重彦
生きるということ エーリッヒ・フロム
自由からの逃亡 エーリッヒ・フロム
女生徒 太宰治
田山花袋
「夜はやさし」がアメリカの小説、「アフリカの日々」がデンマークの小説、日本の小説だと太宰治の「女生徒」と田山花袋の、作品は指定してないけど何作か読んでみたい。
評論では蓮實重彦さんの本をちゃんと一冊は読みたいと思って。
エーリッヒ・フロムは、何冊か読んだのかスゴい気に入ったから、代表作を全部読みたいと思って。
吉本隆明さんは「最後の親鸞」は気になるけど、加えて講演集を買おうかなぁと思ってる。
外にも遊びに出るけどね。
前の3回の投稿で、書くことについて色々と勝手なことを言ってきた。その投稿を読んでもらえたなら、どういうつもりでこうやってブログを書いているかも理解してくれるかもしれない。
「書くこと」について語るにはほどほど足りないというのは分っているけれど、ここで一旦流れを変えて、今回は「読むこと」について書いていこうと思う。
ただ、この「読むこと」について語るっていうのは、どうやら「書くこと」以上に困難なのかもしれない。自分でしっかりと考えると、どれだけ読むことを軽んじていたということから目をそらさずにはいられないからだ。
そう、だいたい俺も同世代の他のひとたちも「読むこと」についての考えが、あんまりにもダメダメなのだ。それは誰のせいとかじゃなくて、時代の流れや環境というのも大きいのだと思う。
小説って、すごく安いんです。だから売れないんです。矛盾してる? ハリウッド映画みたいに制作費に何億ドルもかかったり、絶対しないんです。映画はそうやって膨大な制作費をかけて、二時間やそこらしか楽しめない。でもそれって結局お金が回ることだからokなんです。アニメにしたってそう、特に最近のアニメなんかは同じような内容でも絵柄やディティール(いわゆる「属性」ってやつ)を変えていけば売れ続けるわけですから、経済的にはすごい優秀な娯楽なんです。それに比べて小説ってのは、もともと消費社会との相性が悪い娯楽なので、そりゃあ低迷してても当たり前だと思います。そういう意味じゃあ映画だって「見る」映画は死にかけな気もしますけどね。「見せられる」映画ばっかりで。
そういう環境なので、小説を読めない人ばっかりになっても当然でしょう。俺だって、小説なんて、読めやしないんです。そこが問題なんですけどね。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」 (松尾芭蕉)
たぶんね、大恐慌とかで世界中が余裕がなくなったら、やたらいい小説とか出てくるよ。バカバカしい映画なんて作ってる余裕なくなるから。むかしは貧乏だったから、すごい作家とか詩人がたくさんいたんだろうね。
前回、前々回と、連続で「書くこと」について書いてきました。さらにもうちょっとだけ、書くということについて自分なりの考えを書かせてもらいます。
文章を書くということは、読者を想定しています。新聞や雑誌、掲示板など全て読者がいるから成り立つものです。このようなことを書くと「日記」はどうなんだと、日記は例外的に読者を想定していないんじゃないかという反論ができそうです。けれども俺は日記というのもやっぱり読者を想定しているもんだと思うんですよね。小学校のころに女子がやっていた秘密の交換日記なんて、必ず男子がこっそり奪って男子トイレで見てましたし。(結局どうでもいいことしか書いていなくて、「なーんだ」ってなるんだけど。でも今考えてみるとその秘密の交換日記にはメタコミュニケーションの視点でみると、かなり興味深い。”交換自体の快楽”が顕著に表れている例のような)「必ずばれてしまう秘密」というのは置いといて、それよりももっと確実にその日記を見る人物がいますね。それは書いた本人です。書いた本人を「読者」と言えるのか、という問題ですが、言うまでもなく「読者」です。
前回の投稿で、文章を書いている時には三つの視点が存在していると書きました。「文章を書いている自分」と「文章を書き終わった自分」そして「読者」です。「文章を書いている自分」と「文章を書き終わった自分」というのは時間軸の違う位相にいる自分です。「読者」という言葉を単純に読みとれば前者の二つと同じ軸の違う位相ではありません。しかし、この日記の例でいうのならば「読者」というのは「読み返している自分」つまり前者二つとはまた別の位相での自分ということです。
日記にもちゃんと「読者」がいる。とりあえずこれが今回の、結論、みたいなものです。
ところで、この読者となっている自分ですが、その時から見れば、もう書いたときの自分とは別人です。これは比喩ではなくて、本当に別人なのだと言ってるんです。体は毎日生まれ変わりますし、環境も日々変化します。「身体」というのは常に変化するものです。それに対して「情報」というのは変化しません。劣化も変形もしません。空模様は日々変化しますが「2008年8月1日の横浜は大雨だった」という情報があるとすれば、それは100年経っても変化しません。そのときの空はどのようになっているのでしょうか。土佐日記だって、著者の体は千年以上前に消滅したのにも関わらず、未だに日記に書かれた情報は保存されています。つまり日記を書くと言うことは「日記を書いている自分」の身体を情報に変換して保存するということと言えます。だから人間はここまでに日記を書くのでしょう。だってそれ以外のものは全て移り変わってゆくのだから。ブログがここまで流行っているのも、自分を保存したいという日記の欲望を引き継いでいるからなのかもしれませんね。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」 (鴨長明)
文章を書いている時は、だれだって書き終わった文章というのを想定して書いています。作家の中には小説の最後の一文まで書くことが決まっていて書いて
いる者もいるそうです。けれどそういう超人的な能力を持つ作家だけじゃなくて、普通の人だってひとつの文章を書いている時は終わりの「〜です。」ぐらいま
では想定して書いています。じゃないと文章というのは書ないからです。彫刻家のミケランジェロが「石自体がすでに彫るべき形の限界を定めているから
だ・・・ 私の手はその形を石の中から取り出してやるだけなのだ」と言っていることとも似ているのかもしれません。
フランス語の時制に「前未
来形」というのがあります。「明日の午後には東京を発っているだろう」というような未来の時点で完了している動作に対する時制です。ジャック・ラカンは
「被分析者は分析家に対して前未来形で語る」ということを言っています。「被分析者」や「分析家」といった用語はラカンの専門用語で、いまいち理解しきれ
ません。文章を書いている自分のほかに、文章を書き終わっている自分というのを想定しているという感覚というのは、ラカンの言う前未来形で語られた過去な
のではないでしょうか。
話が長くなるにつれて、言いたいことが何なのか分らなくなってきていますね。今俺が語ろうとしていることは文章を書いている時の「感覚」のようなものなので、そうなるのそうならざるを得ないのかもしれません。
文章を書く上で大切な要素の一つに、もう一人の自分が存在しているかどうか、というのがあるのではないかということです。文章を書いている時には三人の人 物が居ます。「文章を書いている私」「読者」そして「文章を書き終わっている私」です。「文章を書いている私」が「文章を書き終わっている私」に引っ張ら れる感覚、その感じをうまく掴めば、いい文章が書けるんじゃないかなと思っています。そういう仮説です。
「文章は下手なほうが良い。粋ごのみがわざと着物を着くずして着るように。」(レイモン・ラディゲ)
どちらかというと、色々とものごとを考えてから行動する方なので、たまに考えすぎて何も出来なくなることがある。野球のプレイヤーが、急にボールの握り方が分らなくなって「あれ?いつもどんな感じで握ってたっけ?なんだかしっくりこないな……」と思ってしまうようなもんです。こうやって文章を書くことにも、必用以上に臆病になってしまって、おろおろと立ち往生してしまっていたんです。
けれどもそういうステップを踏むことって、それを乗り越えることで技術が向上することもあると思うんです。ピアノプレイヤーがたったひとつのキーを叩くのでも、素人と違う音色が出ているように感じるのは、気のせいではなく、ピアノプレイヤーがどれだけ意識的にひとつの行為に対してたくさんの要素・動作を踏まえているか、ということが表れているからです。F1レーサーはアクセルを踏む動作ひとつにしたって、何段階も素人よりも細かく分けて踏んでいます。そういうことは「意識する」ことから得られる技術です。
これまでは意識に「捕われて」いました。乗りこなせないじゃじゃ馬だったわけです。これからはそいつを何とか乗りこなして(たまに手の着けられないくらいに暴走してしまうかもしれませんが)ちょっとづつでも書いていこうと思います。何より「文章の力」というのを信じているんです。
そういうわけで、次回は今回を引き継いで「書くこと」について書こうと思います。(こうやって次回予告することで自分を追いつめてるんです)