書くことについて(2)
文章を書いている時は、だれだって書き終わった文章というのを想定して書いています。作家の中には小説の最後の一文まで書くことが決まっていて書いて
いる者もいるそうです。けれどそういう超人的な能力を持つ作家だけじゃなくて、普通の人だってひとつの文章を書いている時は終わりの「〜です。」ぐらいま
では想定して書いています。じゃないと文章というのは書ないからです。彫刻家のミケランジェロが「石自体がすでに彫るべき形の限界を定めているから
だ・・・ 私の手はその形を石の中から取り出してやるだけなのだ」と言っていることとも似ているのかもしれません。
フランス語の時制に「前未
来形」というのがあります。「明日の午後には東京を発っているだろう」というような未来の時点で完了している動作に対する時制です。ジャック・ラカンは
「被分析者は分析家に対して前未来形で語る」ということを言っています。「被分析者」や「分析家」といった用語はラカンの専門用語で、いまいち理解しきれ
ません。文章を書いている自分のほかに、文章を書き終わっている自分というのを想定しているという感覚というのは、ラカンの言う前未来形で語られた過去な
のではないでしょうか。
話が長くなるにつれて、言いたいことが何なのか分らなくなってきていますね。今俺が語ろうとしていることは文章を書いている時の「感覚」のようなものなので、そうなるのそうならざるを得ないのかもしれません。
文章を書く上で大切な要素の一つに、もう一人の自分が存在しているかどうか、というのがあるのではないかということです。文章を書いている時には三人の人 物が居ます。「文章を書いている私」「読者」そして「文章を書き終わっている私」です。「文章を書いている私」が「文章を書き終わっている私」に引っ張ら れる感覚、その感じをうまく掴めば、いい文章が書けるんじゃないかなと思っています。そういう仮説です。
「文章は下手なほうが良い。粋ごのみがわざと着物を着くずして着るように。」(レイモン・ラディゲ)