書くことについて(3)
前回、前々回と、連続で「書くこと」について書いてきました。さらにもうちょっとだけ、書くということについて自分なりの考えを書かせてもらいます。
文章を書くということは、読者を想定しています。新聞や雑誌、掲示板など全て読者がいるから成り立つものです。このようなことを書くと「日記」はどうなんだと、日記は例外的に読者を想定していないんじゃないかという反論ができそうです。けれども俺は日記というのもやっぱり読者を想定しているもんだと思うんですよね。小学校のころに女子がやっていた秘密の交換日記なんて、必ず男子がこっそり奪って男子トイレで見てましたし。(結局どうでもいいことしか書いていなくて、「なーんだ」ってなるんだけど。でも今考えてみるとその秘密の交換日記にはメタコミュニケーションの視点でみると、かなり興味深い。”交換自体の快楽”が顕著に表れている例のような)「必ずばれてしまう秘密」というのは置いといて、それよりももっと確実にその日記を見る人物がいますね。それは書いた本人です。書いた本人を「読者」と言えるのか、という問題ですが、言うまでもなく「読者」です。
前回の投稿で、文章を書いている時には三つの視点が存在していると書きました。「文章を書いている自分」と「文章を書き終わった自分」そして「読者」です。「文章を書いている自分」と「文章を書き終わった自分」というのは時間軸の違う位相にいる自分です。「読者」という言葉を単純に読みとれば前者の二つと同じ軸の違う位相ではありません。しかし、この日記の例でいうのならば「読者」というのは「読み返している自分」つまり前者二つとはまた別の位相での自分ということです。
日記にもちゃんと「読者」がいる。とりあえずこれが今回の、結論、みたいなものです。
ところで、この読者となっている自分ですが、その時から見れば、もう書いたときの自分とは別人です。これは比喩ではなくて、本当に別人なのだと言ってるんです。体は毎日生まれ変わりますし、環境も日々変化します。「身体」というのは常に変化するものです。それに対して「情報」というのは変化しません。劣化も変形もしません。空模様は日々変化しますが「2008年8月1日の横浜は大雨だった」という情報があるとすれば、それは100年経っても変化しません。そのときの空はどのようになっているのでしょうか。土佐日記だって、著者の体は千年以上前に消滅したのにも関わらず、未だに日記に書かれた情報は保存されています。つまり日記を書くと言うことは「日記を書いている自分」の身体を情報に変換して保存するということと言えます。だから人間はここまでに日記を書くのでしょう。だってそれ以外のものは全て移り変わってゆくのだから。ブログがここまで流行っているのも、自分を保存したいという日記の欲望を引き継いでいるからなのかもしれませんね。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」 (鴨長明)